1 街の中心から離れた山中に大きな屋敷が存在していた。地元では資産家として知られている月浦(つきうら)家の物だ。 大人なら嘗てそこには数多くの使用人が存在し、今から考えれば映画の舞台にも成りそうなほどに豪華で、そして、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。 現在では住む人間が減ったことから使用人は居なくなり、その存在感は薄れて来てはいるものの、山に住んでいる大金持ちという認識は、街に住んでいる大人なら誰もが持っていた。 「はぁ……」 大型車が通れるほどの大きな門を前に、青年は小さく溜息を付く。 それはあまりにも小さくて短く、隣にいたとしても聞こえないほどの物だが、とても深くて重かった。 青年は月浦栄流(つきうらえいる)という。その名が召すように、この大きな屋敷の住人であり長男となる。 今は高校三年生で、通っている高校までは長いと感じるほどの距離がある。初夏を迎えようとするこの時期は、衣替えが過ぎ、ブレザーはなくなり、半袖のワイシャツへと制服は替わっているが、それでも帰りは上り坂になるので、汗が滲み確かな疲れを与えた。 「はぁ……」 再び栄流は先程と同じ溜息を付く。それは、山を登った疲れからではなく、屋敷を見た事による物だった。 背丈こそ標準だと言えるが、体の線は細く華奢な上に、優しそうな顔立ちは中性的で、男として観れば子供っぽいが、女性としてみれば美人として認識できる。 それだけに山を登ってきた事による疲れのように思えるが、長年通学しているの事もあり、それにはすでに慣れていた。 それに、本当に疲れて嫌なのであればタクシーを使えばいい。それぐらいの贅沢は、贅沢の内に入らないほどの財力が、月浦の家にはある。 それでも栄流が徒歩に拘るのには理由がある。 「もう着いたのか……なんか、早く感じる……」 早く家には帰りたくないと言うのがその理由だった。 帰らないと言う選択肢は存在しない。そんなことをしても、継ぐに連れ戻される事は明白であり、どれだけ嫌であっても逃げることは叶わない。 唯一出来ることと言えば帰宅を遅らせること、それも言い訳が聞く範囲内でだ。 徒歩での通学はそんな理由でしているに過ぎないが、そんな物は無抵抗に等しい行為でしかない。結局帰るしかなく、またその先に待つ事は変わらない。 「………………」 栄流は黙って家の門を潜る。日が延びていることもあり辺りはまだ明るいが、近くにこの屋敷以外の民家はなく、野生動物も居ないので静まり返っている。 屋敷には人が居るのにもかかわらず、話し声どころか物音すら聞こえない。 だから、栄流が開ける扉の音は良く響いた。引き戸特有の五月蠅い音を起てる事で、自身の帰宅を告げることになるが、それでも誰かが出迎えるということもない。 静かな廊下を通り、栄流は自分の部屋へ戻り着替える。その間、怪しいことをしていないのにも関わらず、ある人物に会わなかったことに安堵する。時間にしてほんの少しでしかないが、まだ安心できる時間が確保されたからだ。 少しでも体を休めようと、ベッドへ仰向けに寝転がり天井を見上げていると、足音が近づき咄嗟に身を起こすが、直ぐに安心する。その音は、自分が警戒すべき相手ではないからだ。 「栄流、お帰りなさい」 「ただいま、お母さん」 部屋に入ってきたのは栄流の母親、好子(こうこ)だった。肩に掛かるほどの黒髪は、まるで雲を思わせるほどの柔らかさを想像させ、優しい顔立ちと大きな胸が合わさり、隠すことが出来ないほどの包容力を溢れさせている。 歳は四十代半ばだが、そうは思えないほど若々しい容姿をしており、それと同時に大人の色気を併せ持っていた。 母親とはいえ、扉を閉めた男子学生の部屋へ、声も掛けずに入る事を嫌がる子供もいるが、栄流に限ってはその様なことはなく、たったそれだけの出来事で二人の家族関係は良好なことを伺わせた。 「姉さんは居るの?」 「さっき帰って来て、今は夕食の仕度をしていますよ」 「そうなんだ、今日も早いね」 しかし、栄流が姉のことを尋ねたとき、母親との良好な関係とは違う物があった。返した言葉が、まるで居ることを望んでいない物だったからだ。 「私は車ですからね。最近栄流の帰りは遅いですし、仕事を終えた後でも先になりますね」 「ね、姉さん……」 母親と同じように入ってきたのにも関わらず、栄流の反応は驚きを合わせた物になっていた。 姉の名前は水観(みずみ)、栄流とは八歳離れており、今は父親の会社で働いてる。 真っ直ぐに腰まで伸びた漆黒の髪とツリ目が、厳しそうな雰囲気を表すが、その印象を裏切らず、二十代半ばにも関わらず役員の座に居り、その様な人事は身内贔屓で社員の士気が下がりそうだが、そうさせない程の実力を持ち合わせていた。 「だから私が、学校の送り迎えして上げるって言っているのに」 「そうすればいいのに。歩きだから水観よりも行きは早く、帰りは遅い。それに疲れるのですから」 栄流は車を使用している水観よりも、登校は早く帰宅は遅い。普通に考えれば、車を利用する方が時間をより有効に使える上に、徒歩による疲れもなく良いことずくめなだけに、母親もそうすることを望んでいた。 「登下校ぐらい歩かないと、運動不足になるからね」 出来るだけ家に居たくないと言う、本当の理由を言う事は出来ない。 栄流は帰宅を遅らせようと部活動もしている。運動部であれば朝練もあり、より希望に添うことも出来るが、残念ながらそこまで体力に自信はなく、選ぶことは許出来なかった。 「お母様、私の方は終わりましたから、残りをお願いします」 「ええそうね。母親として、お味噌汁ぐらいは作らないとね」 そう言うと、好子は水観の横を通り台所へと向かう。 夕食の仕度は大半を水観が行うが、好子も母親として少しは何かをしなければならないと考え、最低でも味噌汁は作るようにしていた。 母親が居なくなると水観は部屋に入る。栄流と二人だけとなる空間は、一人だけ以上の沈黙に包まれる。 栄流は姉からの強い視線を感じるが、それに応える事は出来ない。姉弟であり、周りからは特に仲が悪いとも思われていない。しかしそれは、真実の関係を示していない。 「相変わらず、私の方は向かないのね」 一人になりたい、だから栄流は自分の部屋にいるのに叶わない。この部屋に入って来た姉が、直ぐに去ることなどありえないことで、これから何が起きるのかはすでに決まっている事だった。 「お母様がお味噌汁を作るまで、二人で今日の疲れを癒しましょう」 料理が苦手ながらも仕度をする母親は、手際が良いとはいえない上に凝り性なので、味噌汁一品を作るだけでもそれなりの時間を要する。 火を使うので台所から離れることも出来ず、二人だけで事を行うには十分な時間があった。